聖火リレースタートで退路を断つ東京五輪
昨日、
東京五輪の聖火リレーが
福島県のJビレッジから
スタートしました。
ネット配信で出発式の模様を
リアルタイムで拝見しました。
本来であれば
多くのお客様の熱気の中
行われるはずだった出発式は
無観客で行われることとなり
相次ぐ聖火リレー辞退者のニュースもあって
なんとも言えぬ重たさを感じる
出発式であったと思います。
しかし、
五輪は動き出しました。
聖火が走り出した以上
政府はなんとしてでも
五輪を実行するでしょう。
それがたとえ
思い描いた五輪とは
まったく異なるものであったとしても。
そして昨日、私は
五輪に対する方針をひっそり変更しました。
これまでの私の五輪に対するスタンスは、
こんな感じでした。
開催基準と決定時期を決めるべき
東京2020は昨年の段階で
1年ではなく2年の延期とするべきでした。
(維新として昨年4月の参議院本会議で表明)
2024年を東京大会とし、
2028年にパリ大会とすべきでした。
(松井一郎代表 今年1月発言)
しかし1年の延期で開催する場合は
徹底した感染症対策をシミュレーションし
どれだけの医療リソースが
五輪に投入されるのかを計算し
その時の感染状況とのバランスを考え
五輪のために地域医療に支障をきたすことはないと
言い切れる状態で開催すること。
また、蔓延が収束しなければ
全世界からの選手団をお迎えすることが
困難であることから
感染状況と合わせて
各国各競技の選考大会の実施状況を注視し
オリパラの開催可否を決定する時期と
開催可否の判断基準を明確にすべき。
フェーズの変化
結局政府は「春までに判断」というふんわりした回答でここまで引きずってきました。
そうして今はもう
桜がこんなにも美しく咲いています。
『オリパラの開催可否を決定する時期と
開催可否の判断基準を明確にすべきだ』
この時期は過ぎました。
聖火リレーがスタートしたこれ以降
もし、「五輪中止」という事態になれば
おびただしい数の関係者・企業・団体が被る損害・ダメージは取り返しのつかないレベルとなり
国の信頼も失墜します。
肉体と精神を磨き
コンディションを整えてきたアスリートたちには
大きな打撃となるでしょう。
かくなる上は
規模に関わらず
いかに安心・安全に
大会を開催するかになるでしょう。
とは言わず
どのように開催したらよいかを
積極的に考えたいと思います。
最低最悪、
日本人だらけのリモート大会になり
「そんなの五輪じゃない!!」
と国内外の猛批判にさらされようと
もう、後には引けないところまで
来てしまっているから。
そして何より
被災地の方々の気持ちを踏みにじり
傷つけることになるから。
私が自分なりに
被災地について知ろうとし
現地を訪ね
そこに暮らす人々の話を聞き感じたのは
復興、未だ道半ば
ということです。
みんなで力を合わせ、
耐え難きを耐え
悪夢にうなされ
人のぬくもりを感じ
言葉に癒やされ
言葉に傷つき
社会を責め
自分を責め
自然を責め
自然に感謝し
自分の命を問い
人生を問い
死を考え
生を考え
ただひたすら重ねてきた
10年だったのではないか。
そう思いながら出発式で
地元の子どもたちが歌う
「花は咲く」を聞いていると
1時間前に仕上げたメイクを
もう一度やり直さないと
どうしようもない顔面になりました。
被災地にも
いろんな人がいる。
優しい人だって
意地悪な人だって
暗い人だって
明るい人だって
五輪を疎ましく思う人だって
五輪を希望としている人だって。
「私達のオリパラなんだ!」
「世界中の人に注目されるんだ!」
「五輪のために設備投資したんだ!」
「せっかく聖火ランナーになったんだから走りたい!」
「地元の農林水産品を思いきアピールしたい!」
「ぼくたちのためにゆうめいなせんしゅがくるんだ!」
「こんな状況で開催など馬鹿げてる!」
「菅政権の意地だ!○○さんの傀儡だ!」
と騒がれていても
楽しみに待っていた人たちは
きっといる。
五輪開催に猛烈な批判をする人々や
私を含め、
このタイミングでの五輪開催に
首をかしげる人々が
いろいろ言ってくるけど
五輪が中止になるのは悲しいな…
そう思う被災者もいるはずなのです。
そんな人達にとっては
菅総理・森会長・橋本元大臣の言葉は
これまで頼みの綱だったと思えばこそ
菅総理の出発式欠席は…
残念でなりませんでした。
総理は出発式に出席すべきだった
言うまでもなく
五輪の主催はIOC。
JOCと組織委員会、東京都が実働部隊となって
政府もバックアップしていく。
なので、普通の五輪なら
欠席してもいいのです。
でも、
今回は違う。
周りが猛反発する中で
やるんだ!と進めてきたのが菅政権です。
だから、
総理が出なきゃ
「そんな覚悟なんかい!」
と見えてしまう。
今回の欠席理由は
「国会の日程などを勘案し」
とあります。
国会の日程調整は実質
“国対”が担います。
菅政権にとって大切な出発式であるなら
与党国対が汗をかいて
「この日はかくかくしかじか
被災地のためにどうしても参加したい」
とかけあえば良いと思うのです。
ご存知の方も多いでしょうけれど
国会の日程というものはぐちゃぐちゃ。
2日前に
「あさって委員会が立ちます!
質疑時間は〇〇分です!」
と連絡があり、
即日質問用紙を出さねばいけないこともありました。
もとより日程など
ぐちゃぐちゃの国会のために
大事なはずの五輪が
ないがしろにされているイメージは
次の選挙にだってプラスには働かないんでない?
と…超外野ながら思うのです。
国対が総理を守りながら
福島に行かせて差し上げたほうが
よかったんじゃないですかね。
ちなみに私個人は
「この日は総理が聖火リレー出発式に
どうしても出たいそうなので
日程が半日ずれ込み、
委員会は夜になります」
と言われても
「そりゃ、総理が来るだろうと期待している
福島県民もいらっしゃるだろうものね。」
と、どうぞどうぞするでしょう。
コロナの後手後手感や
なぜそうなる!?という政策が出るたび
総理に諫言できる人って誰かいないの!?
と思うこともあり、
内閣官房に「孤独・孤立対策担当室」が設置されたものの
この永田町で一番孤独なのは
菅総理なのかもしれない
傷だらけの五輪が訴えるもの
いまは『復興』という言葉が
対外的なアピールに使われているように
物悲しく感じます。
でも、
そんな中で復興五輪が
訴えるものが何かと考えれば
復興は未だ道半ば。
しかし、
われわれは弱く、また逞しく。
希望は常にあり。
そんなメッセージかと。
これは日本の戦後ともリンクし
コロナ社会の現在にも通ずること。
日本は完全に自力で立っているでしょうか。
1956年のもはや戦後ではない、という言葉から
時が経つこと65年。
日本の国際的地位を考える時
いまだ戦後なのではないかと
思う瞬間があります。
敗戦の傷は
これほどの時間が経っても
完全に癒えていないのではないかと。
全世界を苦しめたコロナウイルスという災いもまた
収束の様相は見せません。
人類がコロナに打ち勝った証としての五輪は
おそらく大変厳しい。
今後長きに渡って
主に経済を中心とした影響を残し続け
ライフスタイルから産業の在り方
人々の価値観さえも変革させながら
生み出される明るいものの影に
多くのものが苦しみながら淘汰されていくでしょう。
そう考えれば
この東京五輪は
きれいごとだけではない私たちの世界。
それでも歯を食いしばりながら
永遠に挑戦し続ける私達の世界を
象徴するものとなり
傷だらけの五輪にも
それなりの意義が生まれるのかもしれない。
全世界がコロナとの戦いにもがき苦しむ中で
これまでの五輪のイメージとは程遠い
簡素でみすぼらしい大会の中で
それでもアスリートが誇りを失わず
命を燃やして挑む姿は
きっと気高く、尊く、美しい。
そんな彼らの姿に
きっと私達は何より
心動かされるでしょう。
いずれにしても
約1万人を見込んでいる
五輪のための医療スタッフについての
人材確保の見通しや
無償協力の是非については
今後も確認や議論が
必要になるところです。
また、
変異株を主流とした
予想以上に大きな第4の波が来た場合などは
それこそ直前であっても
中止決定をしなければならない、
その可能性も残されています。
処理水もお忘れなく。
ちなみに
「アルプス処理水」について
これだけはいやだ、
と思うことがありまして。
それは
今週の
東日本大震災復興特別委員会でも
お伝えしたのですが、
復興五輪が終わってヤレヤレ…
となったところで
「福島沿岸に海洋放出します!!」
と決定すること。
それって、
福島の方々をないがしろにしていると
思わざるを得ないので。
真に「復興」に誠実でありたいのなら
復興五輪の前に
必死に汗かいて
福島の方々が納得できる方法を探り
五輪開催前に道筋をつけるべきだと
私は考えます。
最後に。
出発式での小池都知事の言葉を聞き
「サステナブル・リカバリー」とか
おしゃれな言葉で高感度上げるだけじゃなくて
「福島の電力の恩恵を最も受けているのは東京です。
処理水問題については東京都も一緒に考えてまいります」
って、言ってほしいなぁ…と思っていました。
東京・大阪などの大都市はじめ
海のある自治体で福島の負担を
少しでも分け合う。
お互いが極限の状態にありながら
被災地のみなさん支え合ってきたように
政治もまた
自治体同士で支え合っていく必要が
あると感じます。
と、
小池さんにはおよそ届かない
ブログでつぶやいてみるのでした。
長いブログをお読みくださり
ありがとうございました(感謝!)