身を切る改革で、新しい政治の扉を開く

梅村みずほが「今だから」代表選に名乗り出た理由-政治家の資質を育んだ半生を振り返る2万字インタビュー

「日本維新の会」の代表選に挑む、梅村みずほ。「旅行代理店からフリーアナウンサーへ転向し、話し方教室の運営や講師を経て、参議院議員に初当選」というプロフィール文だけを見れば、どうも政治の世界とは縁遠かったように見える。

「政治家とは、人生の全てを力にして活かせる仕事」と語る。いかなる経験が、彼女を政治へ向かわせたのだろうか。宗教問題に苦しんだ幼少期、就職超氷河期の苦しみ、ジリ貧のフリーアナウンサー。母としての悩みに直面し、言葉の重要性に気づかされた経営者時代。そして、党内改革への想い。政治家・梅村みずほを形作った、その半生を振り返る。

 


 

目次

演説前には音楽!気持ちを「ヒーローゾーン」へ入れていく

まずはウォーミングアップにライトな質問から……好きな食べ物といえば?

お寿司、焼肉、カルパッチョが好きです。

最近の趣味は何ですか?

ファミリーキャンプですね!最近はあまり出掛けられていませんが、琵琶湖はよく行きます。我が家は「行き先に迷ったら琵琶湖」です。連休でなければどこかしらのキャンプ場は空いていますし、湖水浴ができてバランスも良いですから。

マイブームはありますか?

音楽に浸ること。選挙という、まさに血みどろの権力闘争……私は言葉が重たいので「ちみけん」って呼んでいますが(笑)、やらねばならない、勝たねばならない、死力を尽くさねばならない戦いにおいては、モチベーションを維持するのが何より大切だと思います。

そんなとき、大河ドラマのテーマソング、子どもが観ているヒーローアニメの主題歌、今なら高校野球のテーマソングといった音楽に浸って、自分の気持ちを「ヒーローゾーン」へ入れていくんです。選挙カーに乗る前などに聞くと、芸人さんの出囃子みたいになってくれて、頭のスイッチがパチン!と切り替わります。

愛読書を教えてください。

私が尊敬する、唐の第二代皇帝、太宗(李世民)の言行録である『貞観政要』です。政治家になろうと決めたとき、何か手引きになる本に出会いたいと、まずはネットで調べました。大学時代に中国文学を専攻していたこともあり、レビューの高評価で気になった『貞観政要』を手に取りました。

後世に語り継がれるほど泰平の世を築き、中国で屈指の名君と呼ばれた太宗が、どんな政治を行ったのか。それを手始めに読んでみたら、涙が止まらなくなって。これほど素晴らしい方が治めたら、確かに良い国家になると思いました。歴史上の人物ですから美化されているのも織り込み済みですが、私が実現したいのも、まさに太宗のような政治です。

興味深い点は、名君といわれる太宗をもってしても後継者を育てるのに失敗していること。そこに百点満点も完成もない政治の難しさがあり、また人間の営みとしての奥行きやロマンも感じます。

忙しい毎日のなかで「メンタルケア」の方法はありますか?

ケア、という意味では、これといってありません。というのも、「自分の身に起こることは全てが必然である」と捉えられると、大概のことは乗り越えられるようになったからです。私は、この考えを持てるようになって、生きるのがすごく楽になりました。

たとえば、今、ガラガラと天井が崩れ落ちてきたら「なぜ私の部屋だけ?」「傷ができて痛い」など、いろいろと思うはずです。そこで「この体験は私に何を教えようとしているのだろう?」と考えると、出来事を常にポジティブへ転換できるんですよ。

もちろん痛いものは痛いですし、悔しさや悲しみといった感情はありますが、まずは自分に起きたことを受け入れる。そこから「何か得られるものはあるだろうか」と考える。天井が落ちてきたのなら、建物のメンテナンスが行き届いていなかったのかもしれませんし、違う部屋の老朽度を調べる必要があるのではないかともいえます。次なる「すべきこと」が見えてきますよね。

私は座右の銘が50個くらいあるのですが(笑)、その一つに「人間は一生のうちに逢うべき人には必ず逢える。しかも、一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に。」という哲学者の森信三の言葉があります。人間だけでなく、場所や本や挫折やチャンスも含めて、全てにおいて「逢うべき時に逢っている」と思想を転換すると、それほどメンタルケアが必要なくなりました。

 


 

「全てが必然である」と受け入れるから、今は迷わない

「全てが必然である」という考えに至ったきっかけがあったのでしょうか。

私は1978年生まれですから、40年以上も生きていると、苦しみ、悲しみ、怖さを感じることもたくさんあるものです。それこそモヤモヤとした心を抱えて、自分の殻に閉じこもるような経験もしました。

たとえば、私は「産後うつ」のような状態になったことがあります。幼い頃から「あなたたちは男性と肩を並べて生きてくんだよ」と言われて育ち、自分も当然のようにその価値観を持ってきました。初めて就職したJTBでも、面接から「外回りの営業がしたいです」と志願しました。ただ、当時は仕事面で男女の違いが大きく、その希望は叶わなかったのですが、今でも社会全体にそういった性差は色濃く残っていますよね。

「働かざるもの食うべからず」という考えが頭に残ったまま、出産後に保育園へ子どもを連れて行くと、「梅村みずほ」ではなく「誰々くんのママ」と自分を捉えられる。「私」というものがわからなくなり、一種のアイデンティティ・クライシスにも陥りました。

わが子はとびきり可愛いとは感じながらも、私の働きたい気持ちや叶えたい夢との折り合いをつけるのが難しい。愛情はたくさんあっても育児が向いていないタイプなのだと気付かされました。夫とも喧嘩しましたし、「私のキャリアは何だったんだろう」と思ったこともありました。

そうやって苦しんだ過去が自分なりにもあります。そこから、いろんな人に悩みを打ち明けてアドバイスをもらったり、本を読んだり、自分で考えたり。そのように外から得られたものと、私の内から湧き出るものをミックスしていった結果が、「全てが必然である」と受け入れることでした。

ふてくされても悲観しても、目の前の現実は変わりません。自分が気落ちしていれば周囲にもプラスに働きませんし、デメリットしかないのであれば、受け入れて切り替えていったほうが効率的に処理できます。日々考えているうちに、そういったマインドがついていきました。だから、今はそれほど迷うことはないのです。

母がのめりこんだ宗教。歪んだ「昭和の家族」のかたち

ご両親からの教えという話を引き継ぎますと、1978年に生まれた梅村さんは、どのようなご家庭で育ったのでしょう。

絵に描いたような「昭和の家族」だったと思います。父は金融業に務める転勤族で、「24時間働けますか」「男は黙ってサッポロビール」みたいなタイプの長男。夕飯の食卓でも父は黙って食べ、父の帰りが遅ければ母は寝ずに待っていました。専業主婦の母は、お盆やお正月は長男の嫁として、実家に帰れば親戚のドンチャン騒ぎを台所仕事で支えていました。

2歳上の姉がいますが、私は両親や姉からたっぷりと愛情を受けて育ったと感じています。ただ、ある時から家族に歪みが生じました。父は戦後の厳しい時代を生き、「長男のあるべき姿」を教え込まれ、親姉弟や実家を大切にするように生きてきました。その裏には両親に認めてほしい想いを募らせたままで、特に母の愛情には飢えていたのでしょう。今思えば、父は愛着障害のような状態だったと思います。

いわゆる「嫁姑戦争」が家庭内で起きたとき、父はいつも結局は祖母、自分の母親の側についていました。ただ、母は25歳で結婚して、子育てしながら転勤族の父に従い、長男の嫁としてのプレッシャーを受けながら生きていました。父からどこか大切にされない苦しさを抱えた母は、ある宗教に光を見出しました。私が小学校5年生くらいのときです。

ときに宗教は人の心を救い、確かにその自由は尊重されるべきです。しかし、母が傾倒した教団は、特異な性質を持っていました。父も最初こそ関心を持っていませんでしたが、気づいたときには母と姉は教義に肩まで浸かりきっていました。そこから、家族の姿も歪んでいきます。「長男の嫁にもかかわらず親戚の葬式に(宗教上の理由で)列席できない」といったこともありました。果ては父が包丁を持って、母を追い掛け回すことも……。

私は、お母さんが大好きな子どもでした。母が泣いている姿も見てきましたから、幼い頃から「お母さん大丈夫?」と声をかけていました。それに母はいつも「大丈夫よ、お母さんには、お姉ちゃんとみずほちゃんがいるからね」と答えてくれます。幼心にも、私は母の心の支えになっているのだ、という自負や責任感、そして満足感がありました。母が家を追い出されることもしばしばあり、雪の降る夜中に毛布を手にして探し回ったこともあります。

夫婦の関係がこじれていくなかでも、私は変わらずに母を気遣っていました。ただ、あるときから母の受け答えが変わりました。「大丈夫よ、お母さんには神様がいるからね」と。そのとき、私の心の中で確かに何かが壊れたのでしょう。神様には勝てないよな、とある意味納得しつつも、喪失感にも敗北感にも似たあの時の気持ちを表すなら”虚空”でしょうかね。教義に対する疑問や父の悲しみへの共感から、私自身はその宗教の寄り合いなどからは距離を置きはじめ、家族のなかで私は努めて笑顔でいることを選んだんです。やじろべえの重心のような役割を担うために、苦しくても、いつも明るく笑っていようと。

とても歪んだ家族にはなりましたが、これらの経験は政治の世界に飛び込んでから、役に立つこともあった感じます。

どういったときに、役立っていると実感しますか?

初当選した2019年の参議院選挙では、政治の知識も乏しいままの無名候補者として、右も左もわからない選挙戦を戦いました。そこでたくさんの方から「しんどいときもずっと笑顔だった」と褒めていただきました。子どもの頃から苦しさを封印して笑うことに努めてきましたから、できたのだと思います。今では自分の強みになっていますね。

また、両親は離婚の危機を何度も迎えていましたし、我が家は両親が離婚したほうがよかったとも思います。しかし、娘の私も何度も離婚を勧めなかったのはやはり夫婦の収入差が大きかったから。経済的に自立し社会としっかりつながっていたら、母は宗教に走っていなかった可能性もあります。財産分与や配偶者控除の「103万円の壁」など、働きたくても働けない女性の悩みにも直面し、当事者としてこれらの問題についても向き合えています。

安倍元首相の事件があり、宗教二世の問題も包括されて語られるようになってきました。有り様はさまざまですが、宗教の問題で自分が苦しんだ経験をもとに、今を生きる子どもたちが苦しまなくて済むようにやるべきことがあるはずです。

もっとも、政治の世界に入ってから、宗教問題はいずれ当事者として向き合わなければならないとは感じていました。ただ、事例はさまざまですから、政治においては当事者としての主観が強すぎても一概に良いとはいえません。私という人間の深いところに眠る非常にデリケートな問題でもありますし、社会課題としてもかなりナーバスですので、私自身が政治家として成熟するまでは機を待とうと考えていましたが、やはり今年、安倍元首相の事件をきっかけにして、今こそ自分が議論の中心になっていかなくてはならないのではないか、とは思っているところです。

 

苦しんだ経験が、政治家としての今後に直結していくのですね。ご両親は健在ですか?

父は4年前に闘病の末に他界しました。末期ガンがわかったときに「余命1年」と言われ、律儀な父らしくというのか、ほんとうに1年こっきりで逝ってしまいました。

その1年間、母と姉と私は、必死に介護しました。一度は崩壊した家族でも、縁あって一緒になった大切な人であることは変わりません。私は育児をしながら介護するいわゆる「Wケア」となって、最終電車の新幹線に乗り、眠ってしまった二人の子どもを両脇に抱えて病院へ向かうこともありました。

父がいよいよ最期を迎える前、当時5歳の息子が「じいじにインタビューします!」といくつかの質問を投げかけたことがあります。父はもう声が出ず、ひらがなの表をゆっくりと指差したりして答えていました。すると息子が「人生で一番良かったことは何ですか?」とドキッとする質問をしました。

父は、右手の人差し指で母を指し、左手の人差し指で父自身を指しました。そして、人差し指同士をクロスさせました。それを見て、母は堰を切ったように泣き出したんです。ふたりが一緒になれたことを、父は人生を閉じる間際に、人生で一番良かったことに挙げたのです。

母は幸せな家庭を作りたくて宗教に救いを求めましたが、悲しいかな、それが元で家庭は崩壊しました。声にはできずとも、それでも父は自分の妻と出会えた喜びを臨終に伝えた。その時、やっと私たちは家族になれたのだと思えました。

たまたま私の家族は、こういった結末を迎えられましたが、宗教問題で苦しんでいる家庭にそうそうハッピーエンドなどありません。私の心の深いところに触れる問題として、今後も取り組んでいくつもりです。

就職「超」氷河期…仕事選びのキーワードは「人」だった

家族の問題を抱えつつも、梅村さんは富山県立呉羽高等学校を卒業されて、立命館大学文学部に進まれていきます。どんな学生生活を過ごしていたのでしょう。

その後の進路にもつながるところでいうと、中学生の頃から興味があったので、高校では演劇部に入りました。発声練習など共通点もあるからか、その演劇部は放送部も兼ねていて、それぞれに顧問も1名ずついらっしゃいました。

ある時、放送部の顧問から「梅村さん、良い資質を持っているから、朗読の大会にも出てみたら」と声をかけられたんです。実際に全国大会にも進めて、良い経験になりましたね。それもあって、大学では放送サークルに所属しました。演劇と放送のどちらにするか決めるとき、将来の仕事にしようと考えるなら、アナウンサーなら2年浪人して3年目に縁がなければ、すっぱり諦められるだろうと思ったからです。

放送サークルでイベントMCをしていた姿を見て、あるタレント事務所の社長さんから「しゃべる世界に興味はない?」と声をかけられました。もちろん興味はあったので、その事務所に所属することになり、学生時代からケーブルテレビのリポーターやナレーション、イベントMCの仕事をさせてもらう機会もありました。「自分だからこそ務まること」があり、個性を生かせる仕事なのだと思えたのは嬉しかったです。

まぁ、のほほんとした大学生だったと思います(笑)。楽しいことが大好きで「笑いを取る」ことを人生のプライオリティでも最優先にして生きていましたしね。女子っ気は全然なくて、先輩から「お前はいつになったら化粧すんねん」なんて言われて。携帯電話のストラップはNHKのキャラクターのどーもくんで、着信音はマイムマイム。ゴーイングマイウェイで、お気に入りのペコちゃんのTシャツを毎日洗っては着るようなタイプでした。

卒業されたのは2001年で、いわゆる就職氷河期にあたります。就職活動は厳しいものでしたか。

まさに就職「超」氷河期です。「自分が活躍できる場としての社会」を思い描いていたはずが、何十社受けても内定がもらえない仲間もたくさんいました。「社会は私のことを必要としていないのだ」という絶望感をかかえ引きこもる学生、中には命を絶つ学生もいました。嫌というほど勝ち組/負け組を認識させられる時代だったと思います。

私は人の話を聞くことが好きだったので、それを引き出す仕事ができたらいいな、という動機からマスコミの就職を第1志望にしていました。アナウンサーも受験したんですが、面接に臨むと周囲の方が美しくてびっくりしました。私はヘアスタイルにも無頓着であまり意識したことがなかったから、とりあえずまとめてアップにしているくらいで。覚えているのが「今日のそのヘアスタイルにタイトルをつけるとしたら?」と、今思えば意地悪な質問をされていましたね(笑)

でも、私はユーモアで返すのは得意なほうでしたから「新春の松ですかね!」なんて素直に答えたりして。マスコミには結局ご縁がありませんでしたが、第2志望にしていた旅行代理店の面接は気負わず臨め結構笑いも取れて、内定もいただけたんです。

なぜ、旅行代理店を志望されたのですか?

海外へ行って、人と会ったり話したりできるだろうと思ったからです。今は劣化しましたけど、中国語も勉強していたので、中国の在外支店でバリバリ働く夢を描いたりもしました。とにかく、私の仕事選びのキーワードは「人」でしたね。あとは「旅行代理店ならお値打ちに旅行できるんちゃう?」という下心もありましたよ(笑)。

入社したのはJTBです。面接時から飛び込み営業を志願していましたが、やはりマンモス企業だけあってか叶わず、カウンター業務に就きました。来店するお客様の希望を聞いて、宿泊先や移動手段の手配をするんです。

鉄道マニアのお客様から「お姉さん、こんなことも知らないの?」と言われ、細かな電車の乗り換え手配をして鍛えられたり。そうそう、しかもそのマニアの方、2時間かけて手配したのにお金が足りず、キャンセルになって泣きそうになりましたね。あるいは、フラッと来たご婦人が「主人と出かけるからこの旅館を押さえて」と、わずか5分で何十万と売り上げることもあったり。そうしてお昼になったら、お財布と携帯電話だけ持って先輩とランチに出かけて、お付き合いで課長の愚痴を言い合うこともありました。育ってきた家庭環境もあって空気を読むのは上手くなっていましたから、その環境にもすぐ慣れていったんでしょうね。

ただ、ふと「これが私のやりたかったこと?この先の未来はどうなる?」と立ち止まって考えて、「やっぱり自分にしかできない仕事をやりたい!」と思い始めました。そこに、学生時代にお世話になっていたタレント事務所の社長さんから連絡が来たんです。「週2日だけどラジオでニュースを読む仕事があるんだ。あなたがやりたかった仕事だよ」。

そうは言ってもJTBの正社員で、副業もNGの時代。週2日といえど勤務体系を考えると、その仕事を受けるには会社を辞めなければなりません。悩んだ私は当時の彼氏、今の夫ですが、相談してみたんです。彼は「ずっとやりたかった仕事なんでしょう?チャレンジしてみたら」と背中を押してくれました。

就職氷河期でせっかくいただけた安定的な仕事を捨てて、わざわざ荒波へ進むのが正しいのかとも考えましたが、チャンスに乗るべくJTBを退社しました。後に、本当に荒波に飲まれそうになるんですけどね(笑)。

 


 

ジリ貧で始まった、フリーアナウンサーこと「しゃべる何でも屋」

舞い込んだ週2日のラジオニュースの仕事が転身のきっかけだったのですね。

フリーアナウンサーといっても、レギュラーの仕事は週2コマ入る地方局のラジオニュースだけですし、お金もたくさんいただけるわけではありません。サラリーマン時代に貯めたお金は面白いように目減りしていきました。

アルバイトをすることも考えましたし、時間効率を考えてナイトワークも検討しました。ただ、ご縁のある社長さんから「みずほちゃんは人が好きだから、夜の世界へ進むと、まあまあ楽しくなってしまって、本当に進みたい道に戻れないかもしれない」と言ってくださったんです。頷けるところもあって、とあるラウンジに体験入店だけしてみると、確かに言われた通りでした。

忘れもしない、ボジョレーヌーヴォーの当たり年の解禁日。親友の名前を借りて即席の源氏名にして、美味しいワインをいただきながら、お客様のお話を聞くのが面白くて。働きぶりを見ていたラウンジのマネージャーから「お給料を倍払うから入店して!」と誘われましたが、私自身も「向いているかも」と思ったからこそ、やめておきました。

ただ、人の話を聞くのが楽しいことを改めて確認できましたし、夜の仕事がいかに大変かをその際にお話を聞かせていただいたラウンジのマネージャーさんの言葉の端から伺うこともできました。夜の仕事をするなら真剣にその仕事に向き合う必要がある。だからこそ、私が目指していた本来の道があるのなら、そちらへ全力投球しようと腹が決まりましたね。本業だけで食べていこうという精神で、結局はアルバイトもほぼせずにフリーアナウンサー人生を送っていくことになりました。

とはいえ、最初は仕事を得るところからで、大変だったのではないでしょうか?

ジリ貧ですよ。当時は京都にいましたが、JTBの恵まれた社宅を出て、不動産屋さんに「事故物件でもいいです!1000円でも500円でも安い部屋を紹介してください」と頼み込みました。見つかった部屋は京都の西院で家賃3万円。実は3万3000円のところ、もう一声と値切りました(笑)。

もともとはビジネスホテルだった建物を無理矢理マンションにしたらしく、ベッドも入らないほどの狭さ。フリーアナウンサーの先輩が遊びに来たときに「マッチ箱みたいやな」と言ったのを覚えています。だけど、私にとっては夢いっぱいのマッチ箱です。

ある時、部屋のテレビを観ていたら、デザイナーのコシノヒロコさんが「住む家は人生に大きく関わる」といったようなことをおっしゃっていて。「私も2年後の契約更新までには、今よりも倍額の家賃6万円のマンションに住もう!」と燃えました。

フリーアナウンサーという肩書きですが、実際は「しゃべる何でも屋」です。ありとあらゆる仕事を必死にしました。朝から晩まで屋外で汗水たらしてしゃべり倒す「声の大安売り」みたいな仕事もあれば、冬の寒空で唇を紫にしながらもマイクを握って笑顔で話す仕事も。極寒の大晦日、カウントダウンイベントのMCとして屋外ステージで盛り上げながらも、あまりに寒くて心臓が痛くなってきたこともあったなぁ……。

過酷な現場も多くて、お給料もまちまち。2時間で10万円いただけることもあれば、1日拘束で7000円ということもあります。それだけ聞くと前者だけしたくなりますが、後者だからこそ鍛えられた仕事もあります。実際に、その現場のスタッフの方と10年経って再開したら、イベント会社の社長になっていたことも。しがないMCと現場スタッフが「まさか今こんな未来があるとは」とドラマティックな再会ができて嬉しくなりましたね。

あらゆる現場で、全てを支えているのは「人」なのだと強く思いました。苦しい現場でも私を頼りにしてくれている温かいスタッフの方がいれば行きたくなります。それこそ、放送局の社員アナウンサーでは絶対に経験しないようなお仕事を山のようにやりました。あのときの経験がなければ、私は絶対に国会議員にはなれていません。

初めての参議院選挙で、初めての街頭演説。何を話していいのか迷っても、いざマイクを渡されれば「皆さん初めまして、梅村みずほです!」としゃべり出せる。目の前にはどういった人がいて、私はどういう立場で、みなさんにどういう思いを持ってもらいたいのか。それらを即座にジャッジして話を進めるのは、イベントMCでしこたまやってましたから。

私自身は、しゃべりの世界で特異なる才能はなかったと、今振り返っても思います。テレビやラジオというメディアに身を置き、芸能界に触れていると、私より後から業界に入ってきた人がスターダムに駆け上がっていくのも間近に見てきました。でも、私はそういうタイプではない。一つの仕事が決まったら、実力でしっかり数字を挙げていくスタイルでした。そのかいあって、一つずつの現場に長く関わらせていただくことも多かったですね。

たとえば、ラジオのインフォマーシャルも、私が担当すると数値が好調だと褒めてもらえる機会がありました。冬場の蟹といったシーズナルな商品は各メディアで一斉に展開するものですから、こういった時に「みずほちゃんにお願いしたい!」とご指名いただくのは話し手冥利に尽きるものです。自分を大切にしてくれる、あるいは自分を高く買ってくださるという経験をしてきたのは、今も糧になっていると感じます。

どういった点が政治家としての糧になっていると思いますか?

言葉の力を私は信じていますから、表現というものを、ずっと考えてきたんです。まさに守破離ではないですが、今はアナウンサー時代に培ったしゃべりの型からは離れて、自分の想いを綺麗に見せるのでも、上手に伝えるだけでもなく、目の前にいる人へぶつけていくようになりました。もっとも今も失敗だらけです。特に政治家は使ってはいけない言葉もあり、誤解を招きやすい立場です。中でも恐ろしいのは、言葉には本心が出てしまうことです。

有力者であっても、たった一つの失言で転がり落ちていくことがあるからこそ、政治家は恐ろしい仕事だとは思います。一方で、未経験で知識のない立法府で参議院議員を3年間務めてきて、「梅村さんの質疑が好き」と言っていただけることもあります。それはアナウンサー時代の経験をもって、言葉と表現を活かした質疑者として、マイクを握っているからではないかな、と。

今日のインタビューのために、代表選の記者会見などの動画も拝見してきました。梅村さんがお話される言葉が聞きやすく、腹落ちしやすいように感じられる理由がわかったようで嬉しいです。質疑や会見など、話すときに意識されていることはありますか?

思ってもいないことを言わない。ちゃんとお腹の中にある言葉と、口に出している言葉が同じだからこそ、違和感なく、熱がこもって伝わっていきます。

 

出産を経て、経営者へ。直面した「言葉の檻」という教育問題

次に、フリーアナウンサーから「話し方教室」の運営者として起業されます。どういった経緯だったのでしょうか。

妊娠と出産が大きなきっかけでした。フリーアナウンサーとしては、私にお金を払う価値を見出してくださる方々と一緒に仕事ができ、本当に幸せな日々でした。約10年ほど続けてきましたが、いざ出産を前にすると仕事を休まざるを得ません。ただ、これは私に限らず、フリーアナウンサーは出産後に現場復帰しづらい面があります。

フリーランスですから当然、有給休暇はなく、子育て中も現場優先でフレキシブルには動けません。子どもが急に発熱しても、生放送中なら迎えへ行くこともできません。オーディションのお話が来ても深夜番組だと受けられず、どうしても難しい。

でも、今はありがたいことに0歳児から保育園へ預けられる時代ですし、子どもが小学校に上がれば日中なら働けます。現場に戻れない以上は、仕事を自分でクリエイトするしかないと思いました。そこで、平日の昼間に女性経営者などに「話す技術」を教える講師業を仕事のメインとして起業することにしました。

講師業はフリーアナウンサー時代にも少し経験がありました。主には学生へ教える仕事です。高校時代に放送部だった縁もあって、ときにはコンテストで審査する側になったり、技術指導したりといった機会があり、それを今度は大人の女性にお伝えしてみよう、と。顧客からも好評をいただいて、私自身も子育て一辺倒にならない時間が持てたのもあり、ストレスフリーで楽しい起業家生活だったと思います。

そこからストレスフルな政治家に転身されたのが、また不思議なところです。

そうですよね。講師業で大人の女性たちに話し方を伝えていると、気づくことがいっぱいありました。「私は話すのが苦手です」「自分の声が嫌なんです」といったコンプレックスをお持ちの方が多く、それを紐解いていくと、大人になってからよりも幼い頃からそれらを苦手としている人が、相当数いることが見えてきました。

日本人は正解を求めるように育てられます。教育の現場でも、板書の問題を解くように先生から指され、みんなの前で起立して答えても、外してしまったときは教室中が静まりかえったり。そうなると「失敗しないほうがいい」というように感じやすくなっていく。自己肯定感を下げるように向かいがちなのが実情ではないかと思います。

この点は諸外国とは異なるようです。たとえば、ある子どもが保育園で運動会の練習前に、遊び道具のブロックをバラまいてしまった。日本なら「こんなにしちゃっていけませんね、みんなで片付けましょう」と声をかけそうなところ、諸外国では「まぁ、カラフル!あなたはアーティストなの?」みたいな褒め言葉を挟んでから、「でも困ったわ。この後は運動会の練習よ」と続く。日本と海外では「褒める量」が圧倒的に違うと感じています。

つまり、日本には「言葉の檻」に閉じ込められて大人になった方が多いのです。そうではなく、人へプラスになる言葉をかけられる世の中になってほしい、と私は思うようになっていきました。先ほど話した女性たちのコンプレックスは、「カエルをつぶしたような声をしているよね」とからかわれたり、小学校の担任から「お前の話はつまらない」と言われたりと、成長過程において他者から勝手に評価された言葉が原因であることが多かったのです。

私はメディアでニュースを読む仕事をしていました。いじめや虐待などの問題を伝える立場として、言葉を生業にしている者として、「誰かが必要なことを伝えられないせいで生み出される悲劇」があるのではないかと考えました。それには私の家族問題も重なってきます。母が「苦しい」と感じることを、父へうまく伝えられたら何かが変わったかもしれない。

そうやって頭のなかでジグソーパズルのピースが揃っていくように感じていたなかで、私がするべきことは、子どもたちに「言葉の可能性」を伝えることではないか、と思いました。言葉とは諸刃の剣です。子どもであっても、友達に「死んでしまえ」と毎日声をかけて心を追いやれば、証拠さえ残さずに人を殺めることさえできる凶器にもなる。一方で、いじめを受けている人へ「一緒に職員室行こう」「今度一緒に遊ぼう」と声をかけた言葉は、地獄の底にいる人を掬い上げるような「蜘蛛の糸」としての役割を担うかもしれない。

願わくば、言葉の力で社会を幸せにしてほしい。周りの人を笑顔にしてほしい。苦しいときには思い切って打ち明けてほしい。それだけの力を誰もが持っていますし、仮に通じなかったとしても諦めてはいけません。伝え方を変えれば、伝わることだってあるからです。

そのような思いを持って、「話し方教室」とは別で起業を考え始めました。その思いを2019年のお正月に、懇意にしている大学の先輩へ伝えてみると、「それは政治の現場で動いた方がいいのではないか」と助言をもらったのが、政治を志すきっかけになったんです。

教育に関する問題意識が、政治を志す前提にあったのですね。

政治なんて人生の中で1ミリも考えたことがなかったから、ドリフターズのコントで、タライが頭の上にパーン!って落ちてきたぐらいの衝撃でした(笑)。でも、「その手があったか!」という思いもありまして。即断即決で「政治家になります」と答えました。

その先輩は政治に詳しい方だったのでしょうか?

元フジテレビのアナウンサーである長谷川豊さんです。大学時代から面倒見よく付き合ってくださって、私の結婚式でも司会をしてくれた兄貴分のような存在です。政界にも挑戦して、当選は叶いませんでしたが、2017年と2019年に日本維新の会から比例候補者として公認を受けて活動していました。

赤裸々に言うと、長谷川先輩は「とはいえ、日本維新の会からは立候補しないほうがいいかもしれない」と正直に教えてくれました。「ベンチャー政党で資金力も潤沢ではなく、手厚いサポートが難しい。さらには女性の少なさもあるので、他党の方が活躍できるかもしれない」と諭されたんです。

「ちなみに、今年は統一地方選がある。愛知出身なら、愛知県議会議員選挙や愛知県内の市議会選挙に出る方法もある」と言われ、カジュアルなランチの場とはいえ、政治という妙案で心に火がついていましたから、私も二つ返事で「出ます!」と答えていて。

ただ、すでに2019年の1月でしたから立候補のための居住要件を満たせておらず、4年後の統一地方選挙を目指すことにしました。それまでは思い描いている起業プランを進めつつ、人脈を作ったり知識を蓄えたりしていこうと、その日は終えました。でも、私にとっては一つの大きな目標を得た日にもなったんです。その後、政策などを調べていくなかで、結果的には日本維新の会からの出馬を選びました。

長谷川先輩は「参議院議員をしながら子育てしている女性議員が知り合いにいるから、話を聞いてみる?」とも声をかけてくれました。お話を伺った方は私と共通する点も多い子育て中の女性議員、かつ庶民的な視線も忘れず、生き生きと議員活動を続けられている、パワーの塊みたいな人です。私にとっては憧れの存在ですね。

そんなふうに起業準備と並行していろいろな方とお会いして、情報を調べながら日々を過ごすうちに、2019年6月の参議院選挙の大阪選挙区で、日本維新の会からの2人目の候補者として出馬するというご縁をいただきました。

 

「今の永田町に足りていないのは、民間の一般の感覚です」

2019年1月に政治を志し、わずか5か月後には立候補ですから、かなりのスピード感です。「一日でも早くやるべきではないか」という想いに突き動かされた形でしょうか。

そうです。あの2019年は、まさに魚が網にかかったような感覚で、奇跡が起こったと思っています。私は本当に無名の新人で、日本維新の会では議員だけでなく秘書や職員の方々も含めて、誰もが先輩でした。皆さんが「誰やねん」と思っていたはずで、本当に公示直前に決まりました。公認決定が6月16日で、公示が7月4日ですから。

私には何の経験もなく、政治の知識も乏しい状態です。政務調査会や政策調査会を略した「政調」という重要な仕事も、私は「整腸」だと思ってボケてしまうくらい(笑)。それに、うちの母は「政治は神様がすることだ」と言って、幼い私たちを「汚く怖い世界だから」と近づけないようにもしていました。メディアの報道を見ても、どうもそれが真実らしく思えてくるから、余計に縁遠いものでしたね。

実際のところ、政治への不信感も根底にはありました。それまで投票は行っていたけれど、「結局、政治って私たちを救わないんでしょ」と無党派でした。実際に、私自身もフリーランスでは認可保育園の指数計算が足りず、子ども2人は保育園も分かれて通うようになり、大きな負担を感じていました。「本当に政治の人は現場を見ているの?」と疑問が浮かんだこともある。

何より、私は就職超氷河期の世代です。何十年と経ってから今さらになって「氷河期の問題」を論じているのを横目に、「当時に政治は何の手立ても打ってくれなかった」と失笑することもあった。そういった不信感が高い状態ながら、長谷川先輩の助言や前述の女性議員の姿、そしてさまざまな出会いを経て、政治という道があることを知りました。

不思議な運命のいたずらでしかない状況でしたが、私が候補に挙がるとき、松井一郎代表は「今の永田町に足りていないのは、民間の一般の感覚です」とおっしゃいました。今の私が持っている、この一般の感覚でしか成し得ないことがある、と信じられたんです。

政治不信は変えられる。カギになるのは、無党派層の女性たち

お話にもありましたが、「政治への不信感」は、手垢が付くほど使われている言葉の一つにも思います。実際のところ、政治不信は変えられるのでしょうか?

変えられると思います。

もともと私は投票すれど無党派でした。幼い子どもの手を引いて選挙に出向くのが大変なのも知っていて、それなのに「私の1票なんて鼻息で飛ぶくらいに軽い」とも感じていた。選挙ポスターを見ても誰もが笑顔で、みんなが良いことを言っているに違いない。勧められるまま鵜呑みにして投票したことも、雨のせいで投票所へ行かなかったこともあります。

そういう女性は世の中にたくさんいます。私の周りのママ友達をはじめ、経営者として目覚ましい売上を出している女性社長であっても「政治は全然わからない」という人も知っています。日本の無党派層において女性は5割を超えているという調査結果もあります。逆に言えば、それだけの人々が目覚めれば、政治は変わる余地があるのです。

出産や教育の無償化など、日本維新の会は女性にこそ支援してもらえるような政策を立案しています。それが伝わらないのはなぜかといえば、「私とは違う人が言っている」と思われてしまうと、聞く人の“お耳のシャッター”が下りてしまうからでしょう。

私もかつてそうでしたから言えますけれど、政治家が演説していても、街中に歩いている無党派層の女性はシャッターを全部下ろして通過してしまうものです。ただ、私は女性で、かつては同様の当事者でもあり、イベントMCなどを通じて話し方を鍛えたからこそ、“お耳のシャッター”を上げてもらうためのコツを心得ていると思うんです。

たとえば、スーパーの前で演説するとき。品揃えを見てから「今晩は回鍋肉がいいですね」なんて話を始めます。なぜなら、政治家が使うボキャブラリーと、一般のお母さんや働く女性たちが使うボキャブラリーは異なるからです。

まずは女性たちのボキャブラリーである回鍋肉の話題で入って、「お父さんはビールが進むし、子どもはご飯が進みます」「せやなぁ」「CookDoを使えばあっという間ですしね!」「せやなぁ」と、もうこのやり取りだけでシャッターが少しずつ開いていきます。そして、ここからが本題です。

「回鍋肉なら豚バラ肉が絶対美味しい。でも、隣に豚こま切れ肉がグラム40円も安く売っていたら悩みますし、もっと抑えたければ豚ミンチにする日もありますよね。そんなふうに私たちはお財布事情を考え、節約しながら毎日生きているじゃないですか。それなのに、国の考え方は結構かけ離れてるんですよ。不要なところに税金がジャブジャブと使われ、本当に使って欲しいところには届いていないものです」

……と税金に対する問題意識をお話してもいいでしょう。

「私たちはスーパーに来たときに何を考えているか。お財布事情だけでなく、家族にとっての栄養バランス、自分の料理スキル、使える時間、食卓の彩り、みんなの笑顔と、いろんなことを考えて台所に立ちます。私は政治家が作る政策は、そうであらねばならないと思っています。この政策は誰を笑顔にするのだろう。ピーマンが入っていたら娘が嫌がるように、ひょっとしたら誰かが泣くかもしれない。持続可能性などを総合的に見て、最後は子どもや家族、地域の人々、国民や国家のためになるのか、心から考えるものでなければいけません。けれど、そう思って仕事をせず、企業や団体からバックアップしてもらうことばかりを考えている政治家も実際にいるんです」

……みたいに、政治について切り込んでもいいでしょう。ただ、ここで忘れてはならないのは「今晩は回鍋肉がいいですね」から入るのは、決して小手先のテクニックではないことです。大切なのは、無党派層で、赤ちゃんを抱っこ紐で抱えながら、かごへ忘れずにベビーせんべいを入れていた、かつての「私」に話しかけるようなつもりで演説をすることです。

それはどれだけ政策立案能力が高い方でも、無党派層の経験がない方には繰り出せない演説ではないかと思いますし、言葉の使い方の妙だとも思います。

無党派層の女性を動かしつつ、政治に関心のある方はより内容を精査できる。多くの人の“耳のシャッター”を開けさせるためにも必要な態度といえますね。

今は苦しい時代です。お母さんが子どもをしばきながらスーパーに入る姿を見ることだってあります。そんな時、「ママも大変ですね」と一声かけたら、涙を流された方もいます。お母さんだって、しばきたいわけじゃないとわかるんです。私もワンオペ育児をしていた時期もあり、母との関係もありましたから、子育てのしんどさも身に染みています。だからこそ、目の前にいる人に少しでも笑顔になってもらえるように、私の持っている言葉の力を使いたいと思うのです。

私は「自分が女だから、今回の代表選で選んでほしい」と言うつもりは全くありません。ただ、政治に目覚めていない女性たちがたくさんいる日本で、女性が政治の方を向いて考えてくれたら、この国が変わる可能性が本当にあるんです。それを実現するためには「誰が言葉で伝えるのか」が、とても重要です。

たとえば、安全保障問題。積極的防衛能力は必要であると、私は考えています。積極的「攻撃」能力ではなく、身を守るための能力であれば欠かせません。電車に乗った時だって自分のカバンが盗まれないように気をつけるものですよね。それが「守ろう」という議論すら許されない世の中は、やはりおかしいはずです。

実際にウクライナ危機が起き、今の時代も昔も戦争になったら何が起こるかといえば、自分の娘も、自分の身にも、何が起こるかわかりません。略奪や性的な搾取は、そういった無法地帯に陥ればすぐにでも起きうるのです。「今こそ女性が『ちゃんと防衛してほしい』と言わなくてどうするんですか。戦争が起きたとき、手をつないでいる娘の身に何が起こってしまうのか、想像してみてください」と伝えると、ママたちは震え上がります。

この言葉は男性ではなかなか言えないことではないでしょうか。女性たちが目覚めれば、憲法改正や安全保障の議論も進む可能性がたくさんあるのです。女性がわからないといけないこと、女性に理解を示してもらわないといけないことも、たくさんあるのです。

性被害の問題は、まさに直結しますね。そして、女性が目覚めるためにも、女性議員そのものが増えることも必要なのだと感じさせます。

思春期の女性なら、空いている電車なのにやたらと隣に座ってくる息の荒い男性に遭遇したり、すれ違いざまにお尻や胸を触られたりすることも、ざらにあるものです。私にもそういった経験があります。日々、身の危険を感じるリスクは女性の方が圧倒的に高いのであれば、本当に必要な対策こそ、女性主導で議論を進めていかなければいけないでしょう。

でも、私は全ての女性の代弁者にはなれません。そして、全ての男性の代弁者にもなれないません。他の女性議員のみなさんに言えることがあるならば、女性議員が増えるように一緒に頑張っていきましょう、と。協力すべきところは協力して、同じ女性とはいえ意見が違うところは当然ありますから、「是々非々」のお付き合いをお願いしたいところです。

 

一般の感覚が残っている今だからこそ、代表選に立候補した

梅村さんに期待された「一般の感覚」について、政治家といわれる方々と一般市民の感覚がずれてしまう問題は、常に起き続けているように思います。なぜそれは起き、また変えることもできるのでしょうか?

参議院議員になって3年経ちますが、非常にずれやすい環境だとは思います。そして、ずれていく自覚があるからこそ、スピード感を意識して取り組まなければいけないと焦るわけです。敵を作るほど生きづらくなるのが政治の仕事ですから、先輩議員が「焦らなくていいよ」と優しく伝えてくれます。それでも、私は焦っています。日本の現状は“どん詰まり”であって、このままのスピードでは日本が沈んでしまうと、本当に思っているからです。

質問にお答えすると、「一般の感覚」をお守りのようにしているつもりの自分であってもずれていきます。たとえば、コロナ禍でマスクや消毒液が足りないときも、秘書さんが頑張って買ってきてくれる。国会議員という大切な仕事に専念するための気遣いですが、それを勘違いする人は「自分に地位があるから当然だ」と受け取ってしまうのですね。

小さなほころびはいくらでもあります。私たちが使う議員会館のエレベーターは本会議が時間厳守だからこそ「議員優先」と書かれていますし、衛視はいつだって敬礼してくださいます。これは聞いた話ですが、議員が偉いから敬礼しているのではなく、「あなたの名前を書いた国民一人ひとりに対する敬礼である」という意味もあるそうです。ただ、そういった細々としたところから勘違いしてしまう人は、実際にいるのだと思います。

話題もどんどん“政治家的”になり、時間の使い方も含めて思考も変わっていきます。私自身も、3年前の自分にはもう戻れないでしょう。時間の使い方、付き合う人、置かれた環境も全て変わってしまいました。40歳を過ぎた大人であっても、これほど人間は変われるのだと感じるくらいに思考から変わりました。だからこそ、日本維新の会の代表選に、このタイミングで立候補したかったんです。

議員になって3年が過ぎても、私にはまだ一般の感覚が残っています。この感覚を失ってから代表になるくらいなら、その役目は私でなくてもいいかもしれません。今こそ、私が持っている民間の感覚に照らして日本維新の会を、内部から改革しないといけないからです。私がそのように訴えているのは、ある意味では「今だからこそ日本維新の会は変われるチャンスである」という時限付きの好機だからです。

「多選禁止」は民間の感覚を引き戻すための仕組み

置かれる境遇や日々の政務に忙殺されるうちに失ってしまうものが、誰しもある。それは「一般の感覚」を期待された梅村さんであっても不可避だと。

そうなんです。日々苦しく思うのは、「政治家・梅村みずほ」と「個人・梅村みずほ」で意見が食い違うとき。子どものマスクにしても、政治家であれば公衆衛生の観点から一定のエビデンスを持って是非を判断すべきですが、個人としては今すぐ子どものマスクは全て外して貴重な機会を奪ってあげたくないという思いがあります。政治家の言葉には責任がつきものです。一度言ったことを覆すことはなかなかできません。

あるいは、子どもの親権問題もそうです。DV(ドメスティック・バイオレンス、家庭内暴力)の問題を抱える友人がいても、政治家としては子どもを父親から引き離すのは「子どもがもつ権利」に照らして考えなくてなりませんし、現状のDV対策の脆弱性について検証しないといけない。でも、個人としては今すぐ逃げてほしいと願いますし、私が政治家である以上は友人であっても介入はできません。今の私がするべきは、共同親権などを含めた弱い人をしっかりと守れるDV対策について働きかけることになるわけです。

政治感覚と一般感覚を中和させていくこと。それが私の担うべき役割であり、難しいところだと思います。あらゆる議員が、こうして政治家的になってしまうのは致し方ないとも感じるからこそ、私が日本維新の会の代表選で掲げている「多選禁止」という公約につながります。国会議員を経験するほど感覚が離れるからこそ、多選を仕組みとして禁じる。そして、
政治家を続けたいのであれば国会議員を一旦は離れ、もっと有権者に近い市町村議会、あるいは首長などを経験することで、民間の感覚を引き戻す機会になると考えています。日本維新の会としても、人材の流動性が生まれますからね。

「多選禁止」は梅村さんが立候補したときに求められた「一般の感覚」の維持を個人に任せるのが難しいからこそ、仕組みによって保とうとする試みなのですね。

多選は身分の固定化を呼び、いずれ権力化します。どうしても視点が凝り固まっちゃうんです。多方面から構えて見られる人が増えるからこそ、偏りの少ない政治が実現できるのではないかと考えています。

偏りのないように、梅村さん個人が大切にしている心がけはありますか?

投票用紙に私の名前を書いてくれた有権者が、がっかりすることはしないと決めています。遠回しな表現ではありますが、ときに政治の世界では、それが毒だとわかっていながら、権力のある人から「飲め」と諭されるシーンがあります。ただ、私がそれを飲むことを、子どもたちに胸を張って説明できるのか、有権者はその姿を望んでいるのかを思い、信念を持って断ることも大切です。

2019年の初当選では、皆さんに言葉の魔法で元気をもらったからこそ、17日間の暑くて長くてしんどい選挙戦を戦えました。18歳の方が「生まれて初めての選挙権で、梅村さんの名前を書いてきました」と言ってくれたこともあります。かつての私が鼻息で飛ぶような一票だと思っていたものが、いざ政治家を志す側に立つと、いかに重いものかも知りました。6年後、24歳になったその方に、私に投票したことをがっかりさせたくはありません。

ある朝、まだ投票権がない中学生の男の子が、街頭演説に立つ私に勇気を出して「日本の女性のために頑張ってください」と伝えてくれたこともあります。そういった言葉の一つひとつに支えられて、今の私がいます。

毒を飲めというシーンが来ても、やはり飲めないと私が信じれば、納得するまで飲むだけの理由を聞いて、それでも難しければ断る。そういう、空気をあえて読まない力、跳ね除ける力というのも政治家としては大切にしています。

 


 

政治とは慶弔である。日本維新の会は「弔いごと」の政策がまだ弱い

政治家になって3年が経ち、自身に起きた変化も聞いてみたいです。

政治の世界に来て、亡くならなくて良かった命はあると日々思います。それらは政治によって全力で救っていきたい。初めの頃は、虐待で子どもが亡くなったり、学校内のいじめで自殺されたりするニュースを目の当たりにするたびに、本当に苦しくて、議員会館のこの机に突っ伏しては大泣きしていました。秘書が心配して見に来るくらいでしたね。

私が国会議員という立場にいたのに、なぜ助けてあげられなかったのか。自分が何も出来てない焦りと申し訳なさ、亡くなった子がもし大人になっていたら実現できていた可能性を思うたびに、悔しくて涙が止まらなかったんです。

でも、泣くだけの時期は、もう超えました。救えなくて申し訳なかった想いをベースに、この一つひとつの死をどうにかして生かさなくてはならない。大人になれなかった子どもたちを、次世代の子どもを守り、未来の日本を変えた存在にしなければならないと転換できるようになってきました。これらの問題は100%の白黒がつくこともありませんし、全てがポジティブに変換できるわけでもない。ただ、全てをマイナスにしてしまったら、亡くなった命が報われないと思うんです。

さまざまな観点で検証しなくてはなりません。真夏の車中で亡くなった子どもがいたとして、その子の置かれた状況を思うのはもちろん、両親はどういった環境にあったのか、両親がどういった暮らし方をしてきたのか、恋人や夫婦であればどういった経緯があって交際を始めたのか……いろんな方が心の苦しみを抱えている人生において、男女が一緒になって生まれた子どもに悲劇が起こってしまったとき、その両親を単に罰すれば済むような単純な話ではありません。厳罰化を考える前に、この両親にあった苦しさを考え、事実の奥をたどる。そうやって痛みを知り、強さを伴う優しさを持ちながら想像することで、政策は彼らを取り巻く一歩先にリーチできるのではないでしょうか。

私が集中的に取り組んでいる「いじめ問題」も同様です。「いじめっ子」と「いじめられっ子」という構図だけで照らすと白黒の世界になってしまいますが、現実はもっとグラデーションになっている。「いじめられっ子」の出席停止や厳罰化をしても、彼らの背景には教育虐待や発達障害などの他の観点が出てくることもある。「いじめる」という動機そのものにアクセスしなければ、本当の問題解決にはつながっていかないと思うんです。

「スクールカウンセラーを学校に配備して、相談できる状態にしよう」という話も、実際に子どもたちにヒアリングしてみると「顔を見たことない人には相談できない」と口々に言います。資格者が業務に当たったとしても、彼らは「傾聴」のプロであって、実際に解決のための手段を考える専門家ではないとも言います。

話を聞いて共感してもらうだけで終わるのではなく、子どもたちは現状を何とかしたいんです。そこに政府がお金を投資してスクールカウンセラーを配備するのは、実効性が乏しいと思いませんか?

実はそういった国策が、見るほどにたくさんあるのです。少子化対策に年間5兆円をつぎ込んでも出生数がどんどん減って81万人になりました。5兆円といえば防衛費と同等です。それなのに好転しないのは、これもいじめ問題と同じく、問題の奥にまでリーチできていないからではないですか?

私は30代半ばで東京に暮らしていますが、現状で子育てすることの難しさは、確かに同年代の友人を含めてよく聞かれる話です。

日本維新の会が掲げている「ベーシックインカム」は、家族一人あたりに毎月6万円から7万円を支給しようとする制度設計です。子どもを産めば産むほどもらえるお金が増えます。さらに大学までの教育無償化も掲げていますから、この二つの柱があれば出生率の改善は望めると考えています。

一方で、それを賄う財源の問題は検証しなくてはなりません。100兆円規模が必要となり、国家予算と同等ではあるのですが、我が党で試算しているうちでは、行政改革や税制改革、社会保障改革、成長戦略による税収だけではまだ難しい。シミュレーションが難しい現状を鑑みつつも、引き続き実現の可能性を探っていきたいです。

政治家になって身に染みたのは、「政治とは慶弔である」ということです。日本維新の会は規制改革をして日本を良くする成長戦略であるといった「慶びごと」についての政策は推進力があり、得意であると感じます。一方で、「弔いごと」の政策はまだまだ弱い。亡くなった子どもたちや苦しみを抱える人たちを救済するための政策を用意することは、もっとできるはずです。私が代表になってからも、両面にバランスが取れた政策を提唱していければと考えています。

 


 

人生の全てを力にして活かせる仕事が、政治家だ

梅村さんにとって「良い政治家」を定義するなら、どういった存在ですか?若年層を始めとする有権者が、どういった観点を持てば、政治家を評価したり応援しやすくなったりするのかを考える、一つの指標をいただきたいという意図です。

言葉にするのが難しい質問ですね……すこし考えます……。

「喜怒哀楽を共にしてくれる政治家」ではないでしょうか。いじめ問題に関する記事を読んで「変えなくては」と立ち上がれる。当事者であるご遺族にお話を聞いて共に泣き、共に怒り、国会の質疑で訴える。悲しい事実を一つの糧にして、未来のために法律を変えていく。そして、悲しい事実がわずかに希望へ変わっていく。そうして共に歩み、共に未来を見る政治家になりたいと、私はいつも思っています。

政治家を志し始めた朝、保育園へ送るために、自転車の後ろに息子を乗せて走っていたときのことです。「ねえねえ、お母さんさぁ、国会議員になろうと思うんだけど、どうかな?」と聞いたら、息子は「こっかいぎいんってなに?」と返しました。「国会議員は日本を良くするお仕事をする人だよ」と言うと、息子はちょっと考えてから、「なれると思う。お母さん優しいから」と教えてくれました。子どもはあなどれないなぁ、と改めて感じました。

政治には、優しい人間も必要です。人の痛みがわかり、事実の奥にある苦しみを想像できる力もいる。それは痛みを経験している人間でなければ思い及ばないことだってあります。幸せな環境だけで生きてきた方では、政治家は務まりにくいとも考えます。家族のことも含めて、私なりに負ってきた様々な痛みを伴う経験が、私の優しさにある源です。そして優しさは、時に強さにもなり、政治家にとって大切な「決断力」につながっていく。

政治家は、酸いも甘いも、苦しみも喜びも、人生の全てを自分の力にして活かせる仕事だと思っています。

今日、梅村さんがおっしゃった言葉を借りれば、「自分の全てが必然となる仕事」として政治家につながった、という印象を強く受けました。

自分の中ではつながっていたことなのですが、ほとんどの方にはつながりが見えにくいですよね。

果敢に代表選へ名乗り出た一期生の私に「身の程知らずだ」「目立ちたいだけの思い上がりだ」と言われることもあります。でも、私には、今だからこそ是非を問いかけたい、私なりの理由があります。今日はそれを整理させていただく機会になって、嬉しかったです。

(聞き手・構成・文/長谷川賢人)

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>お母さん目線の政治が必要です

お母さん目線の政治が必要です

かねてより政府主導で「女性活躍時代」が推進されているとはいえ、残念ながら女性の悩みに本当に寄り添っているとは思えません。 子どもたちを笑顔にするためには、お母さんたちが幸せになる社会を作らなければいけない。 子どもたちを育てることは、未来の日本を育てていくことと同じです。今こそお母さん目線の政治が必要だと考え、私は出馬を決めました。 政治家としてはまだまだ未熟な私ですが、公認してもらえた日本維新の会とともに、子育て支援や教育、女性活躍に関する改革の実現のため、邁進していきます。

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