「死」と「生」について深く考えさせられる出来事が相次ぐ。
生きたくて
生きている人。
去りたくて去った人。
生きたいのに
去らなければならなかった人。
去りたいのに
生きなければならない人。
なんとなく生きている人。
「生」と「死」の在り方について
どれが正しい、と
答えを出すことは極めて難しいし
答えを出すこと自体が
正しいことではないのかもしれない。
人の尊厳というものはどこまでいっても、
人によって定義が異なるのではないかと思う。
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10年ほど前に亡くなった祖父は
最後の数年、
耳と目と意識以外機能しない体で
家族のために生きていてくれたようなものだ。
「ここ2日〜3日が山。さらなる延命を望まれるならこんな方法があるがどうするか。」
訪問診療の医師が提示した選択肢を
親族と話し合った時の祖父の目を忘れることができない。
「おじいさんはもう十分にがんばった。楽にしてあげよう。」と父。
「いやだ。どんな形であっても1時間でも1分でも長く生きていてほしい。」と叔母。
「おじいさんにもう少し頑張ってもらうか。」
号泣する叔母を見て父が言った時、
祖父の目の色が変わった。
少なくとも私には怒りの目に見えた。
祖父は強く死を望んでいる。
そう感じた。
結局、家族で話し合い、
さらなる延命はしないという決断を下した。
私はベッドに小さく横たわる祖父の傍に座り
おじいちゃん行きつけの喫茶店の
ミックスジュースが美味しくて
連れて行ってもらうのが
帰省の際の楽しみだったこと。
おじいちゃんのレコードプレーヤーで
いとこ達と一緒に
オヨネーズの「麦畑」を熱唱したのが
とても楽しかったこと。
私のボーナスで招待した家族旅行の下呂温泉に
もう一度行きたかったこと。
楽しかった思い出を伝え
ありがとうと手をさすった。
祖父は優しい目を潤ませた。
こう書くと、
私の価値観が全面に押し出されるが
人によっては
「そうだろうか。
おじいさんは強い目で”生きたい”と
訴えていたのではないか?
目をうるませていたのは
”何とか生かしてほしい”と
孫娘にすがっていたのではないか?」
と考えるだろう。
真実は
亡くなった祖父のみが知っている。
2年前に小細胞癌で亡くなった父は
余命宣告の1年きっかりで旅立ったが
セカンドラインという
2番めの抗がん剤で体がボロボロになっても
なんとか生き延びたいと
強い信念で闘病していた。
サードラインも前向きに検討していたが
最終的には本人・医師・家族で話し合い、
QOLを優先した。
意識混濁の中で旅立ちたくないと、
痛みや苦痛と戦いながら
最後まで頑としてモルヒネを使わなかった父は
私が子どもたちを抱えて
病室に駆けつけた数分後に亡くなった。
娘をひと目見てから旅立つのだと
父は強い意志で待っていたのだと思う。
祖父の時とは違い、
父の看護の際は
本人の意志を確認しながら
最期を迎えることができ、
悲しみは尽きないが
遺族としての後悔はなかった。
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あらゆる病を患う人が
希望を持って生きられる社会を作る。
これは政治家の役目だ。
ひとりひとりの生きる権利を守り
尊重する社会にしていくため
私も全力で仕事をするつもりだ。
しかるに一方で
病の進行・症状も千差万別なら
患者の死生観も千差万別である。
繰り返される毎日に
一粒の希望すら見いだせず
心臓を動かすことだけを責務として
終わりなき苦痛と絶望に耐えるのは
拷問にほかならないと捉える人も
いるのではないか。
そういう人にとっては
壮絶な苦痛を抱えながらも
希望を持って生きる「べき」
という理想の強要は
価値観の押し付けに感じ
良い政治が行われていれば
全ての人が生きたいと思う社会になる「はず」
という理論も
空想のきれいごとであるかに
感じられるかもしれない。
生き方の多様性が叫ばれる中
人生の仕舞い方については
どのように考えたら良いか。
尊厳死
安楽死
生き方を選ぶのは私達の権利。
では
死に方を選ぶのは私達の権利か、否か。
これは優生思想云々の話ではない。
いつかは話し合わなければならない
私たちの身にいつ起こるかしれない
人生の終わり方の問題。
死を渇望し
思いを遂げた難病の女性が
何を社会に訴えたかったか
どんな制度を望んでいたのか
あるいは
どんな仕組みがあれば
彼女は生きがいを見いだせたのか
彼女が人生の最後に残したものは
その問いだったのではないか。
結論を出すのが難しい問題に
真正面から向き合い議論するのが
議員の仕事だ。
まずは党内から
議論を深められたらと思う。
人の尊厳。
- 2020年7月26日
- 政策
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